昭和54年07月15日 朝の御理解


 御理解 第22節
 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ、ままよとは死んでもままよのことぞ。」

 今日は、合楽教会の壮年部の方達の大会、信徒大会が牟田満正先生を講師にお迎えして、十時から開かれる事になっております。私は今朝方まだ牟田先生という方にお目にかかった事はないのですけれども、じゅんじゅんとしてお話しをなさっておられる。今日のお話しの講題は「神と人」という講題を頂いております。先生いろいろお考えになったらしいんですけれども、咄嗟に私は合楽には、この講題が一番適応しとると思いますからというお言葉であった。
 合楽というのは、合楽という地名の事ではなくて、いうならば神と人。いうならば神様と氏子とが仲良うする信心。しかも合楽し合うていく信心。そこから生み出されて来る所のおかげと合楽では説かれる。だから神と人という講題が一番適当だと思うと、いお言葉でございましたそうです。それを私は今日お夢の中ですね、それこそじゅんじゅんとして、それが何んか当ぁり前の事をお説きになっておるんですけれども、あのうもう何んともいえん味わいのある、話しを長々と頂いて居るお夢で。
 内容は忘れてしまっておりますけれども、やはり神と人と言う事でお話しなさっておられ、まぁその要点を言うと、人間が生れると言う事そして死ぬると言う事。その生れて死ぬる間の事が、神様との関わりを持ってと言う様なお話しであったように思うんです。ですからもう人間だれしもが生れてきた。そして飲んで喰うてそしてちょいという事になるんですけれども、必ずいうならば死んでいくね。問題はその内容がいうならば信心であるかないかその内容。
 いうならば土より出でて土に還るといわれるが、その内容とてもやはり土の心を持って受け、土の心を持って頂いてゆく信心を、お道でいう信心生活と言う様な内容であったように思うんです。今日私は御理解をこの二十二節を頂かせてもらいましたが。おかげはそれこそ降るようにあっておる。けれども受け物が悪ければ、おかげが漏るぞと仰る受け物とは、果たしてそれこそ一体どう言う事なのだろうかと。水も漏らさんという事を申しますが、水も漏らさん生き方というのはどう言う様な事であろうかと。
 信心を頂いておるというても、おかげを頂いておるというても、今日私御神前で頂きましたのは、私はいつもここに懐紙を入れておるんですけれども、懐紙の一枚をすっとこう出してみて下さる所を頂いたんです。紙は神に通ずるでしょう。懐とはふところという事でしょう。私共が頂いておるおかげは懐紙の総てを、まぁ神様が下さるおかげなら、その一枚を頂いておるようなものだと言う事。その事を神様に本当に神様が下さろうとしておるおかげを、いうならば何十枚かの紙が入っておるけれども。
 その中のほんの一枚を頂いておる様な」ものが、これはまぁ私の信心でもそうじゃないかと思う、その程度にしか頂いていない。それでそれを頂き止める信心とは、どういう信心をさせて頂いたならよかろうかと、私は思わせて頂きましたら、長がぁい、それこそ畳一枚位の大きな紙に、もう大きな筆をもって何かを書いている所を頂いた。大きな筆であるにも関わらず、墨は先の方にちょこっとつけてある。
 それで書こうとしておる。これじゃこんな畳一枚も大きな広い長い紙に、その大きな字を書こうとしてもとても書けないです、筆は大きいけれどもうほんの筆の先の方にちょっとばかりこれに墨をつけてある訳です。これではいかにほんなら根本から降ろして書いたところで大きな字は出けませんよね。そしたら今日はまたこの二十二節でございましたがです、黒苦労と言う私は言う事はここでは修行と申します。苦労とはいわん苦労を感じる時には結構な修行をさせて頂いてと。
 昨日、一昨日井上太門先生が電話をかけてまいりました。教主金光様が無事にお目の手術がお済みになったと言う事であった。ところが岡山大学病院に入院しておられるんですけれども、冷房が効かずに大変なご修行だと言う事でございました。そしたら金光様がおしゃった事はね、「何でも修行でございますから」と仰ったという電話であった。そりゃまぁこの暑さに、しかもあの箱のようなね洋館建ての病院でしょうが。今は石油不足の為に節約の為でしょう。冷房が全然効かない。
 効かなきゃ入れてない。したらね金光様が「何でも修行ですから」と仰ったと言う事が、その電話の中に付け加えてあった。大変な御修行をなさっておられる。何でも修行ですからという私はそれだと思うんです。この事だけは修行この事だけは嫌。いや修行とは言いよるけれども、実際は修行としてそれを受けていない。そこでね天地金乃神様がそれこそ降るように下さっておる、そのおかげを頂き止める心は何かというと、もう「一切が修行」という頂き方だ。
 そこには神様が下さろうとする一切のおかげというものが頂き止められると言う事になるのです。成程今日牟田先生がお話なさっておられた様に、生れてから死ぬるまでの内容の全てがです、私共が本当に修行として受けなければならない。それをね本当に神様が修行として受けて下さるか下さらないか、問題はその頂き方を信心とは稽古する事だと言う事になるのです。目が覚めた今日一日どうぞ御神意に叶うた修行が出来ますようにという頂き方なんです。これはもう一切がです嬉しい事、悲しい事、痛い事痒い事。
 その総てを修行として受ける受け方。神様の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばとこう仰る。ままよとは死んでもままよの事ぞと。もうどういう事であろうが、このままよという心。今日どう言う様な風が吹いてくるやら、どう言う様なお日照りがあるのやら、どう言う事やら分からんのです。分からんけれどもどう言う事が例えばありましても、起こって参りましてもそれを、いよいよ合掌して受ける心というものが、もう出けておらなければならない。またそれを願わなければならない。
 時にはヨロヨロするような問題が起きて来るかも知れません。どっこいとこれを合掌して受け止めてゆくという信心。そういう信心がねいうならばそういう信心がね、水も漏らさぬおかげにしてゆくのですから、信心の稽古をするおかげを頂く為の信心と言う事ではなくて、そういう修行を修行たらしめる為の信心。今日一日をいよいよいうなら土の信心でと、いうならば覚悟の程を定めておく決めておくと言う事。
 お互い信心しとります、修行もしとりますと言うけれども、そしておかげは大きなおかげを頂きたいと、思うておらん者は、誰ぁれもおらんだろうと思うんです。もう私はこれ位でよかという者はなかろうと思う。ましてや合楽で信心の稽古をなさっておる方達は、そのいうならば、天地乃親神様の願いというものがです、大きく掛けられておると言う事が分かれば分かる程、大きなおかげを頂かせて貰おうという願いを、皆持っておりましょうけれども。
 それはいうならばね広い大きな紙に向かって、大きな筆を持ってさぁ今から書こうとしている所ではなかろうか。その大きな筆にたっぷりとね墨をつけさせて貰う為に、もう少し苦労の摺り溜めがなされなければならない。墨の摺り溜めがなされなければならない。たっぷりそれにつけられるだけの言うならば苦労不足と言う事になる修行不足と言う事になるのじゃないでしょうか。又は修行させて頂いとってもそれを修行と思わず、何と難儀な事であろうかと、修行を難儀にしてしもうとる事はないでしょうか。
 こんな勿体ない話しはないですよねですから。それをね、今日牟田先生のお話しを夢の中に頂いておるように、生れて言うならば死ぬるまでの間はです、もうそれこそ飲んで喰うてと言う事なんだけれども、その飲んで喰うてというその事の中にです、何でもない事の中にです、生きておる生とし生けるものが、皆んな日々やはりそれなりの生き方をしておる、その生き方そのものがですね、信心させて頂く事によって、それを総て修行として受ける。まぁいうならば一切を神愛として受けると言う受け方です。
 どれだけ綿密に自分のものにしてゆくかと言う事が、信心の稽古だと言う事になるのです。難しい事はない。二千年も三千年も経った宗教では、いうならば物足りない。いやこれが完全無欠という信心ではない。いやむしろ人間はそれによって、いうなら悩みをいよいよ増してきた。それによっていよいよ難儀を感じる、一生で終らなければならない様な風にしか出けてないのが、数千年来の人間が頂いて来たというか、させて頂いた宗教である、宗教以前の宗教と金光教が言われるのは。
 今日私が皆さんに聞いて頂いたような所を頂いて、本当に分かって初めてはぁ十全の宗教とはこれだという事が分かるし、それを自分のものに頂いて初めて十全の、言うならばおかげが頂けると言う事になるのじゃないでしょうか。助からない元。助けられない助からない原因と言った様なものはない。罪だとか因縁とか言うものはない。この生き方を持ってするなら、誰しもがね言うならば神様が下さろうとする、言うならば十全のいうならおかげをです、十全に受け止める生き方。それは私共一生がです。
 そのままが教祖様が仰っておられる、この方の信心の修行と言うのは、もう一生が修行じゃと仰った。もうそれこそ飲む事喰う事、その全てが修行なのですから、それを本当に修行として有り難く受ける心を作る事が、信心の稽古だという事になります。それをいよいよ修行と成る程と、合点させて頂く事の為にです、合楽理念は言うならばあらゆる角度から説いてあると言う事にもなります。
 今日一日が、だから修行という日々をいうならば、どれだけ十全に頂き止めるか修行として受け止める事が出来たかと言う事の、いうならば日々であらねばならない。今日の牟田先生のそのお話しの内容と言うものは分かりません。けれども私が夢の中で頂きましたような、それこそ生れて死ぬまでのその間の事がです、言うならば教えに基づいた、信心に基づいた生き方をするかしないかと言う事によって、あの世に持っていくものこの世に残しておるものの差が出けて来ると思うですよね。
   どうぞ。